俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

何故、台湾は200億円もの義援金を支援してくれたのか。

東日本大震災の際、台湾が200億円もの義援金を送ってくれたことは皆さんもご存じだろう。台湾は親日派。だから日本を未曾有の災害に遭遇した際に、「日本が困っている」という事から当たり前のように義援金を集める募金活動が各地で行われ、そして、200億もの義援金が集まった。
台湾人は「921台湾大震災の際に、日本が真っ先に救援に駆け付けてくれた。だからその恩返し」と言う。日本が真っ先に救援に駆け付けた際、「やっぱり日本が助けに来てくれた」という声が多く聞こえた。
「やっぱり日本が」の「やっぱり」とはどういう意味だろうか。


俺は今、日本統治時代の歴史についての研究を続けているが、その研究を通して、「何故、台湾が200億もの義援金を支援してくれたのか」「何故、台湾人は親日派なのか」「何故、やっぱり日本がなのか」を考えてみた。


そのためにまず、日本が台湾を統治した1895年の台湾に戻る必要がある。
当時の台湾は、清朝が日清戦争に敗れ、政府関係者、軍関係者は中国へと引揚げていた(逃げ帰っていた)。その一方で数多くの台湾人が取り残されていた。無法地帯となった台湾で勢力を伸ばしたのが匪賊たちであった。匪賊たちは台湾人の家を焼き払い、略奪を繰り返していた。1895年7月、大倉組台湾総支配人として台湾へ赴任した賀田金三郎が基隆の港に着いた時、港の周りは廃墟同然となっており、人っ子一人いない状態だったと記録している。さらに、台北に入った賀田は、基隆港と同じような光景を目の当たりにした。今の台湾総統府の付近には誰も住んでいなかった。
台湾を統治した日本は、まずは、この匪賊の討伐を行う必要があった。初代樺山総督、第二代桂総督、第三代乃木総督と、三代の総督が匪賊討伐を試みたがいずれも失敗。
その間、匪賊たちは、先の賀田金三郎が設立した郵便・現金輸送の業務(現在の中華郵政の前身)を度々襲撃していた。
匪賊がいるために、台北・高雄間の交通網の工事も思うように進まず、台湾の近代化が大きく出遅れていた。
第四代児玉総督の時代になり、匪賊たちに対して平民化政策を打ち出した。これは、匪賊が武器を捨てるならば、土地・建物・職業、そして当面の生活費を支払うという条件であった。交渉相手は当時、最大勢力を誇っていた陳秋菊。交渉人は、西郷隆盛の長男、西郷菊次郎。西郷は根気よく陳匪賊を説得し、最終的に交渉は成立。しかし、陳が提示した金銭は莫大な金額であった。その報告が台湾総督府に入ったのが夜の10時過ぎ。調印式は、翌朝、宜蘭で行われることになっており、数時間で今の貨幣価値にして2億のお金を用意しなければならなかった。そのお金を用立てたのが賀田金三郎。自分の全財産を担保に、銀行からお金を都合したのであった。
これによって、匪賊は武器を捨て、匪賊被害はなくなり、台北・高雄間の交通網も一気に工事が進んだ。


さらに、台湾東側では、原住民による襲撃(首狩り)が繰り返されていた。また、東台湾への交通網は海上しかなく、誰も手を付けていない不毛の地であった。その地に、1899年、賀田金三郎が妻の道子とともに上陸。東台湾の開拓を行った。
原住民の襲撃により、台湾初の日本人移民村「賀田村」の住民は殺され、賀田組の多くの従業員も命を落とした。さらに、追い打ちをかけるように、マラリアが大流行した。
賀田はそのような悪条件の東台湾に、サトウキビ、タバコ葉を栽培し、台湾初の製糖工場、賀田製糖所を作り(現在のパール印のお砂糖の前身、台湾製糖の前身)、台湾シュガーを世界中に広めると同時に、農園、鉄道、銀行(台湾銀行)、電力、製脳(樟脳)、製氷(今のニチレイの前身)等々、様々な事業を手掛け、大勢の台湾人労働者も雇い入れていた。


台湾が近代化へ向かう中、賀田村の閉村2年半後には、花蓮に国営日本人移民村の吉野村、豊田村、林田村が開村。その後、昭和に入り、西側にも移民村が出来てきた。
花蓮の移民村では、西側で苦しい生活をしていた客家人を移民として受け入れ、農業、製糖業等々を日本人と協力し合いながら営んでいた。


また、学校教育では、それまで教育とはまったく無縁であった原住民に至るまで、全ての子供達に教育を受けさせるという政策を取った。
日本が統治するまで、台湾人、客家人、原住民が会話をすることは難しかった。原住民などは、民族が違えば言葉が通じないという状態だった。しかし、そこに共通語として日本語が誕生し、その教育を平等に受けることが出来た。さらに、勉強のみならず、躾(しつけ)というものも教えてもらえた。これもまた、それまではなかった道徳というものだ。その基本が教育勅語であった。


あくまでも概要だけだが、この様にして、大勢の日本人が、無法地帯、不毛地帯であった台湾の地に平和と発展をもたらし、台湾人、客家人、原住民と共に生きていた。
これが、今の「台湾は親日派の人が多い」に結び付く事であろうし、「311への200億円もの義援金」へと繋がっている。


日本統治時代50年間の歴史、先人達のおかげによって、今があるの。


その事を今の日本人は知らなさ過ぎる。もっともっと知るべきであり、それを知った上で台湾を語り、台湾を理解して欲しい。


俺はそう思うけどなあ。

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