俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

善と悪の区別 悪を善として成り立たせる言い訳

いつの世も、善と悪は存在する。子供の頃はその善と悪の区別は、昼と夜の区別ほどはっきりとしていた。しかし、大人になるにつれて、善と悪の解釈が変わり、気が付くつと悪も善として成り立つように自分に都合の良い言い訳をするようになる。
そして、昼と夜ほどの区別があった善と悪の区別に、夕暮れ時という厄介なものが存在するようになった。


悪事を働いていても、その罪から逃れるために、部分に都合のいい言い訳をし、そして、その言い訳を世間に対しても行うようになる。周りの人を騙し、自分のことを信じ込ませ、自分の悪を相手の悪にすり替える。そして自分を悪の被害者に仕立て上げる。
そんなことを繰り返していく内に、自分自身も被害者だと思い込むようになり、何の罪もない人間を攻撃し、苦しめ、悪党にしてしまう。
信じ込んでしまった周りの愚かな人間も、一緒になって攻撃をし、善の代表にでもなった様な気分になる。


昔のことわざで「火のないところに煙は立たない」というのがあるが、俺はこのことわざはウソだと思う。今の世の中、「火のないところにも煙を立てさせる」という人間が増えている。そう、なんの「非」もない人間でも、今の世の中簡単に悪党にさえてしまうのだ。


身近な事で言えば痴漢冤罪もそうだ。真面目なサラリーマンがある日突然、痴漢として逮捕される。まったく身に覚えのないことで職も家庭もすべてを失うという事が身近で起こる。電車、バスを利用しているサラリーマン全員に起こりうることなのだ。痴漢容疑で逮捕されると、周りの反応は一気に変わる。時には同僚や部下等々が在りもしない事を裏付けるような証言をしたりもする。昨日まで一緒に仕事をしていて、仲の良かった仲間までもが平気で裏切る。もちろん、本人たちは裏切っているという意識はない。「逮捕」という事実を受けて、在りもしない事を無理やりこじつけて、しかし、それが善だと信じて証言をする。


SNS上のウソの情報も同じだ。罪をねつ造しようと思えば簡単にできる。例えば、自分がある人物に騙されたと情報をアップしたとしよう。その際、その相手の過去を調べる。もしも何かの事件などでその相手が訴えられていたとしよう。結果が不起訴処分であろうとなかろうと、そんなことは関係ない。訴えられたという事実(裁判記録)だけを掲載する。見る側は、判決までは見ない。訴えられたという事実だけで十分なのだ。例え、その訴えられた事自体が仕組まれていた事であっても関係ない。そこまでは見る側は考えない。そうすると、見る側は、訴えられた=悪党という先入観だけでその人物を判断する。


会社を経営していて、その会社が倒産した場合、債権者は民事訴訟を起こす。そして、その裁判の席で、その債務の返済方法を決める。これは当たり前の行為だ。恥じる事ではないと俺は思っている。逃げ隠れせず、きちんと後始末をするのだから。
しかし、民事裁判があったという事だけをアップして、相手のイメージに打撃を与え、相手を悪党に仕立てるというやり方もある。
また、会社に出資していて、その会社が倒産したら、出資金だったにも関わらず、「金を貸していた」と騒ぎ立てる輩もいる。まあ、言いたい放題という訳だ。
裁判にでもしてくれれば相手方もきちんと説明し、反論することが出来るが、裁判もせず、SNS上で騒ぎ立てる連中。それを鵜呑みにする連中。


前述の痴漢冤罪もそうだし、SNS上での攻撃もそうだが、今の時代、全て記録としてネット上に残ってしまう。
報道機関も、冤罪であったことは報道しても、それまでの痴漢容疑者として書きたい事を書いた事にについては、一切の詫びも、訂正もない。「言論の自由」「報道の自由」だからだ。


名誉棄損罪に関してはまだまだ後進国の日本。人々の認識も名誉棄損に関しては薄い。


子供の頃、あれ程、善と悪の区別がはっきりしていたのに、一体、何時の頃から、善が悪になってしまうような、悪が善になってしまうようなことになったのだろう。


自分の行いが全て善だとは思わないで欲しい。悪を自分の勝手な解釈で善にしないで欲しい。


俺はそう思うけどなあ。



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