俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

人に笑われ、バカにされ。でも、それが俺のエネルギーになる。

皆さんは「湾生(ワンセイ)」という言葉をご存知でしょうか?

1895年、日清戦争終了後、日本に負けた清朝との間で取り交わされた下関条約。その条項に従い、台湾は日本が統治する事になった。それから50年間、台湾は日本の領土となったのです。この50年間の時間の中で、大勢の日本人が移民として台湾へ渡り、生活をしていました。「湾生」とは、その50年間の統治時代、台湾で生まれ育った人達の事を言う。


俺のライフワークの一つに、この「湾生」の方々の花蓮への里帰りのお手伝いをさせて頂くというものがある。

具体的には、事前に、台湾時代の思い出、記憶をメールでやり取りさせて頂き、当時お住まいだった場所を特定し、思い出の場所を特定していきます。

70数年も前の事、当時の住所を覚えている方はほとんどいない。故に、記憶だけを頼りに、調査を行う。さらに、花蓮市の協力を得て、当時の資料を閲覧させてもらいながら細かいピースを一つ一つ組み立てていく。ある程度場所が特定出来たら、現地へ赴き、現地の高齢者の家を一軒一軒訪ね、情報収集を行う。

大勢の方々の協力を得て、最終的に、場所を特定。湾生の方が里帰りされた際、現地をご案内させて頂く。

俺にとっては最高にやりがいのある仕事。調査に関しては完全無償で行っている。これは、俺自身の研究のためだと思っているから。

そして、今の日本台湾の良好な友好関係の礎を築いてくださった湾生の方々への俺なりの感謝とお礼の気持ち。

だから、やりがいを感じることが出来る。


人は生きていく上で、様々な壁にぶつかる。湾生の方々の調査でも幾つもの壁にぶち当たる。諦める事は簡単だ。「調べたけど、わからなかった。ダメだった」と結論を出すことは簡単だ。しかし、頑固者の俺は「ダメだった」という結論が大嫌い。

「この方法がダメなら、何か別の方法はないものか。どこかに、解決の糸口が隠れていないか」常にその事だけを考える。そして、「必ず俺が見つける」と自分自身を信じる事にしている。いや、もっと偉そうに、うぬぼれて言うなら、「俺にしか見つける事が出来ない」と思い込む。

すると、不思議なもので、気が付けば壁をぶち破っている。そして、見つけ出せている。一つだけ自慢させてもらうならば、今まで4年間で、約50軒強の湾生の方々の里帰りをお手伝いさせて頂いたが、100%、その方の花蓮時代(一部台北や他の場所もある)の歴史を見つけ出している。


「歴史学者でもない奴に何が出来る。」と笑われた事もある。いや、今でもそう陰口を叩いている奴もいる。でも、笑いたければ笑えばいい。笑われるほどその笑いが俺のエネルギーになる。逆に、俺にエネルギーを与えてくれたことに感謝している。


人がどの様に思うかなんて、俺には一切関係ない。だって、俺の人生は俺だけのものなんだから。他人のためにある人生じゃない。俺のために与えられた人生なんだから。

だから、俺は俺の道を生きる。


湾生の方々に対し、俺は常に心から感謝している。50年間の台湾統治時代の歴史。特に、花蓮と言う場所は、当初は、原住民による襲撃(首狩り)、マラリアの横行、不便な交通便等々、最悪な条件ばかりが揃った場所だった。そこに、台湾で初めての日本人移民村が誕生し、一気に、花蓮が発展を遂げた。その間の先人達の諦めない心があったからこそ、今の花蓮があり、今の台湾がある。そして、その結果、日本人が気軽に観光出来き、親しみを感じる事が出来る台湾がある。

全て、先人達=湾生の方々のおかけだ。


湾生の方々の台湾里帰りを記録したドキュメンタリー映画が台湾で上映され、近々、日本でも上映されるそうだ。俺はこのやり方は出来ない。

湾生の方々の生きた証をネタに、金儲けすることは俺は出来ない。やりたくない。

50数組の湾生の方々の事を調査し、実際にお会いして、当時のお話を聞かせてもらえばもらうほど、俺はこのやり方はしたくないと感じている。


俺は俺なりの方法で、名もなき偉人達=湾生の方々の生きた証を後世に伝承していこうと思っている。


人生って一度しかない。だからこそ、俺は俺として生きる。俺の人生なんだから。

同世代のシニアの皆さんも、自分の人生、自分らしく生きていこうぜ。

人に笑われ、バカにされてもいいじゃないか。それをエネルギーにして、自分の人生を極めようぜ!!

×

非ログインユーザーとして返信する