俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

今を生かされている意味を考えてみようぜ!

「人は生まれてきたからには、死ぬまでお国のために働く義務がある」これは、俺が研究を続けている、台湾近代化の功労者であり、東台湾開拓の父、賀田金三郎氏の言葉である。


時代が時代であったため、「お国のために死ぬまで働く」という事になっているが、今の時代を生かされている俺達は、何のために働き、何のために生きているんだろうか。


人間、生きている限り、人それぞれに何かを託されてこの世に誕生している。今を生かされている意味をじっくりと考えてみてはどうだろうか。


毎日、同じ時間に起きて、同じ時間に家を出て、同じように満員電車に揺られ、同じ会社へ。そしてまた、夕方になれば、同じように満員電車に揺られ、家へと帰っていく。

「そんな俺に、生かされている意味なんてないよ」と思う人もいるかもしれないが、それは違うと俺は思うぜ。必ず、意味がある。ただ、その意味を考える余裕もなく、毎日を過ごしているだけだと思うんだよな。


人間はいつかは必ず死ぬ。その死を迎えるまで、色々な局面にぶつかり、悩み、考え、行動し、乗り越えていく。

苦しい時には「どうして自分だけこんなに苦しい思いをしなければならないんだ」と嘆き悲しむ事もあるだろう。しかし、俺が思うに、「苦しい」と感じている間は、まだ本当の苦しみには到達していないと思う。苦しみは、後になって判る。「今になって考えれば、よくもあれ程の苦しみを乗り越える事ができたなあ」って思う時ってあるだろう。

そう、本当に苦しい時は、苦しいと思う余裕すらない。もう必死になって生きている。

だから、後で自分をほめてやりたくなる。


苦しさを経験するからこそ、些細な事にも喜びを、感謝を感じられるようになる。

そういう時に、「あっ、俺って(私って)、このために今を生かされているんだ」と感じられると思うんだよな。


俺は今、台湾東部、花蓮という場所で生きている。愛する妻と子供達と一緒に、この花蓮の地で必死に生きている。

俺が花蓮へ移住した理由は、冒頭にも書いた、賀田金三郎という人物を知ったからだ。

彼に興味を持ち、調べていく内に、自然とこの地へと導かれた。彼が、台湾で初めての日本人移民村を作った花蓮。この地には、必然的に俺が来る運命にあったのだと思った。

そして、日本では全くと言っていいほど紹介されていない、賀田金三郎の功績と、花蓮における日本統治時代50年間の歴史を、一人でも多くの日本人に伝承していくべきであると感じ、そのために、俺は今、生かされているのだと信じている。


そうまずは、自分が生かされている意味を掴んだ時、自分自身が「そのため生かされているのだ」と強く信じる事だ。


俺だって、彼を研究するために花蓮にいるが、花蓮に来たがために、色々な嫌な目にもあった。想像をはるかに超えた嫌がらせや誹謗中傷を受けた(今も現在進行形)。

しかし、俺には、「賀田金三郎および日本統治時代の50年間、この花蓮の地で生きて来られた先人達のことを伝承する義務がある」と信じることにより、あらゆる嫌な出来事にも負ける事なく、この花蓮の地で生きている。


生かされている意味=何かを成し遂げる義務 だと俺は思っている。


悲しみのどん底にいる人、苦しみのどん底でもがいている人、それもきっと意味があるんだよ。あなたなら乗り越える事が出来るということで与えられた運命であり宿命だと思う。そして、それを乗り越えた時、或いは、何かを悟った時、そこに、あなたがやらねばならない義務=生かされている意味が見えてくると思う。


どんなにどん底でも、絶対に後ろ向きにだけはなるなよ。後ろを振り返るのはもう少し先に進んでからでも出来る。今は、前だけを見て。目の前は真っ黒でも、必ず、その先には明かりが見えてくる。前に進まないとその明かりは見えてこない。

一歩一歩でいい。その一歩がどれだけ時間がかかってもいいじゃないか。とにかく前を向いて進もうぜ。


必死に前を見て生きてさえいれば、その後ろ姿を見て、応援してくれる人が必ず現れる。


応援と声援は違うからな。声援は口だけ。応援は実際に行動に移してくれる。

声援は軽く聞き流せ。応援は遠慮なく受けろ。


残り何年生きていられるかは判らない。ただ、確かなのは、今まで生きてきた時間と同じだけは生きられないって事。

だからこそ、しっかりと生かされている意味を考え、実践していこうぜ。


今日を楽しみ明日を喜ぶ。人生、楽しくなければ意味がないよ!!

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