俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

妻への遺言、子供への遺言

俺達の年齢になると、色々な人生の節目に出会う機会が増えてくる。

幸せな人生の節目ならいいが、悲しい節目にも出会う。


俺は30歳の時に父親が、39歳の時に母親が亡くなった。親父が死んだのは今の俺と同じ年齢の時。ガンだった。発見されたときにはすでに手遅れで、余命1か月と言われた。


母親から「お父さんが健康診断で再検査って言われた」と電話を受けた。当時、俺は台湾で暮らしていた。連絡を受けた俺はすぐに日本行きのチケットを予約し、親父の再検査日に間に合うように日本へ戻った。

医師からの宣告は俺が聞いた。最後まで母には内緒にした。俺の両親は本当に仲が良かったから、母親が知れば父親にもすぐに知れてしまうと判断したからだ。


父親が亡くなり、しばらくは日本に留まったが、当時、台湾での仕事は多忙を極めいて、お店の新規開店も数件控えていた。

一旦、台湾に戻った俺は、お店の新規開店を見届け、その後の段取りをスタッフに伝え、再度、日本へ戻った。長男だった俺は、このまま母を残して台湾へ戻る事は出来ないと思った。俺には兄弟姉妹がいたが、すぐ下の妹は既に結婚していた。弟とは12歳、妹とは14歳も歳が離れていた。

弟は大学生、妹はまだ高校生だった。

話し合いの結果、俺は定期的に日本へ帰ってくるという条件で台湾へ戻ることになった。


それから5年。弟も結婚し、妹も婚約が決まった。母親からある日一本の電話があった。

「そろそろ帰って来てほしい」と涙声で。母の涙には弱い。

俺は台湾での事業をすべて人に譲り、日本へ戻った。35歳の時だった。


そして4年後に、最愛の人、母との別れ。ショックだった。親父との別れの時もショックだったが、その時は、「これからは俺が責任を持っていかなければならない。親父との約束だから」という張り詰めた気持ちがあった。しかし、母の死は、その張り詰めた心の糸が音を立ててブチ切れた様に思えた。


よく人は「いつまでも悲しんでいたら、亡くなった人も悲しむよ。元気出して、亡くなった人の分も頑張って生きなければ」って言うよな。でも、そんなのは無理な事だ。

悲しみなんて消えない。時間が経てば経つほど悲しみは深くなる。

悲しければ泣けばいい。思い切り泣けばいい。俺は泣く。今でも、親父や母親の事を思い出して泣く。

でもさ、悲しいかな、涙って枯れるんだよな。どんなに悲しくても涙が出ない時もある。


両親との別れも辛いが、最愛のパートナーとの別れ、子供との別れっていうのは、もっと辛いものだと思う。辛いなんて表現だけでは足りない悲しみだと思う。


俺はそういった人に何と声をかけていいかわからない。「元気出して」とか「いつまでも悲しまないで」なんて無責任な言葉は言えない。


もしも今、妻との別れが来たら、俺は生きていけないかも知れない。でも、だからと言って自ら命を絶つ勇気も無いかも知れない。それって、生き地獄だよな。


俺は妻に「絶対に俺より先に死ぬな」とお願いしている。すると妻は「絶対に死なない。その代り、すぐに迎えに来て」と言う。俺のことだから、すぐに迎えに行くだろう。

子供達には悪いが、俺は独りぼっちは嫌いだ。だから、子供達にもお願いしていることがある。俺が死んで火葬された後、俺の骨だけを先に墓には入れるなってね。

俺と母親(妻)の骨を一つにして、一緒に墓に入れてくれって。


最愛の人に先立たれた人に言えるのは、

「突然やってきた愛する人との別れ。悲しければ泣けばいい。泣き続ければいい。我慢する必要も、無理に元気を出す必要もない。今の悲しみを後何年持ち続けて生きた行かなければならないかはわからない。後何度、悲しみの涙を流さなければならないかわからない。辛いだろう。でも、その涙、その悲しみを持ち続ける事ができるのは、あなただけだ。愛する人から与えられた最後の愛の証かもしれない。

残酷な愛の証かも知れないが、それも受け止めてあげる必要がある。

愛する人ともう一度再会したいのならば、自殺はダメだ。自殺すると、愛する人からの最後の愛の証を拒否したことになり、二度と巡り合えることはない。

これからの人生は、愛する人との思い出の中で生きていけばいい。二人で行った思い出の場所。そこでまた思い出して泣けばいい。そこで泣けるのはあなただけなんだから。

亡くなった人の事を思い出して、本気で悲しみ、本気で泣けるのは、あなただけ。あなたにだけ与えられた愛。」



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