俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

人間として生きていく上での宿命。それは常に争うことだ

人は何故争い事を起こすのだろう。自我を押し通すために人は争いを起こす。
自分の主張が受け入れられないと相手を攻撃することによって自分の主張を無理やりにでも押し通そうとする。攻撃された相手は、その報復として、さらに相手を攻撃する。
俗に言う、負の連鎖だ。しかし、この負の連鎖があるから人間界は存在すると俺は思う。綺麗ごとだけでは生きていけないのが人間界だ。いや、命あるもの、争いから逃げる事など出来ない。


「無用な争いは避けたい」という言葉をよく耳にする。では、必要な争いは存在するのだろうか。争いはどのような場面においても、どのようなもっともらしい言い訳をしても、無用以外の何もでもない。必要な争いなどこの世に存在しない。
しかし、人間と言う生き物は、無用であると判っていても争いを起こす。


一度争いが起これば勝つか負けるかのどちらかしかない。妥協点を見出してというが、結局は一部は勝利し、一部は敗北ということだ。


「争い事は好まない」という人もいる。誰だって、好きで争い事を起こすわけではない。
しかし、人間には欲がある。無欲な人間など存在しない。聖職者と言われる人間でさえも、浴はある。その欲が争いの引き金を引く。


一度、争いごとになったら、誰もが勝利を目指す。負ければ終わりだからだ。いや、終わりだと信じているからだ。
今までに述べてきたが、人生は常に勝負の連続。全戦全勝は有り得ない。負ける確率の方が高い。
野球選手でも、10打席の内、3打席が安打なら首位打者になれる。サッカー選手でも同じだ。全てが勝てる試合など存在しない。
しかし、そうだと判っていても人は争い事を続ける。


人間は本当に愚かな生き物だと思う。野生動物の世界では、一度勝負に負けると群れから追放される。二度と同じ群れには戻れない。しかし、人間社会だけは、一度負けても、次に勝利を治めれば、元の群れに戻ることが出来る。
真に不思議な世界だと言える。


俺も今まで、幾度となく争いに挑んだ。負ける事もあれば、勝つこともあった。しかし、例え勝利を治めても、残るのは虚しさだ。勝利したなら喜べばいいのだが、いつも虚しさだけが残る。
心の底から喜ぶことなど出来ない。それは何故なのか。俺は人間だからだ。
人間には「情」というものがある。と、同時に、計算が出来る。
「情」の部分で語るなら、負けた経験があるだけに、負けた相手の気持ちがわかる。それだけに、虚しさが残る。
「計算」という部分で語るならば、勝負に費やした時間と労力をもっと有意義な時間に費やしていたならば、勝利の喜び以上の喜びが得られたかもしれないと計算してしまう。
これもやはり「欲」なんだろう。


争いのない世の中など、夢のまた夢の物語だ。
今、正に争いの中にいる人に言いたい。勝敗にこだわるな。勝っても、負けても、残るのは虚しさだけだ。大切なことは、勝敗ではない。争いに挑む、その心だ。諦めない心。結果はどうでもいいじゃないか。自分が納得出来るまで争い事に向き合い、決して逃げることなく、勝っても、負けても、その経験を次の飛躍に結び付けられるようにすることだ。


中途半端な争いはするな。やるなら徹底的に戦え。勝った瞬間は思い切り喜べばいい。しかし、直ぐに、今度は自分が敗者になるかもしれないという恐怖との戦いが始まる。
敗北したら、思い切り悔しがればいい。しかし、直ぐに、今度は勝者になりたいという欲が出て来て、また、争いを始めるだろう。


結局、人間という生き物は、争いがなければ生きがいを見つけることが出来ない、生きているという実感を味わうことが出来ない、愚かな生き物ということだ。


愚かな生き物の人間として生まれてきた以上、争いからが逃げるな。それは、人間として生きていく宿命なのだから。

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