俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

死から何を学び、何を学んでもらえるか。

人は必ず死を迎える。その死を迎える時期が早いか遅いかは人によって違う。
この世に生を受けないまま死んでいく命もある。


俺も親を早くに亡くした。同じ年代の友を見ると、親が今でも元気で生きているという人もいる。羨ましいと思う。
父親が亡くなって25年。母親が亡くなって17年。未だに「生きていればまだ〇歳かあ」と思う。そして、「生きていたらこんな事もしてやりたい。あそこへも連れて行ってやりたい」と思い、涙することがある。


でも、どんなに思っても、生き返ってはこない。


その人が生きていたという事をいつまでも忘れに事が一番大切なんだって。時にはその人を思い出し、笑い、泣く。それこそ一番の供養だって俺は思う。


俺は今、日本統治時代の花蓮での日本人移民村の事や、花蓮に大きく貢献した日本人の事を研究し、執筆している。
その大きな目的は、この花蓮の地に、日本人が生きていたという証を残すためだ。
いつも俺は言っているが、今の友好的な日台関係の礎を築いてくれたのは、数多くの無名の日本人達。その人達の生きた証を残すことが、今を生かされている自分の使命だと思っている。


これと同じように、自分にとって大切な人のことを忘れず、いつまでも引きづって、心に深く刻み込むことが、今を生かされている者としての使命ではないだろうか。


今、自分が生かされている意味は必ずある。その意味を考えず、考えようともせずに生きている連中も多い。そういった人間に限って、人を誹謗中傷したり、ネットなどで攻撃したり、ストーカーの様な行為をしたりして、人が苦しみ、悲しみ、悩み、恨む姿を楽しんでいる精神を病んだ人間。


こういったバカな生き方をするか、それとも、今を生かされていることに感謝し、自分の人生を大切に、丁寧に生きるか。どっちを選ぶかだよな。


俺は思うのだけど、死は悲しい。でも、死から自分は何を学ばせてもらったかをしっかりと考え、死をもって自分に教えを説いてくれた人に感謝できる人間こそが、本当の人間だって。感謝できるから、時に涙するんだって。


俺達シニア世代になると、死と直面する機会が増えてくる。死を悲しみ、そして、死から学び、感謝し、今と言う時間をもっともっと大切にしていきたいものだ。


俺達も確実に死に向かって歩いている。自分が死んだとき、いったい何を学んでもらえるか。それは今の自分の生き方次第だよな。
先に述べた様なバカな生き方しかできない様だったら、何も残せないと俺は思う。
後世に何か残せるような生き方しようぜ。そのためには、人の事を誹謗中傷している時間などないはずだ。


おい、今日もバカ道をひた走るあんた。そろそろ、自分の生き方見直したらどうだい。
人に誇れる、自分の子供や孫に誇れる生き方しろよ。偽りの正義の味方は止めて、自分の生き様だけに集中しろよ。俺達はもうそういった年齢に入っているんだぜ。


俺はそう思うけどなあ。



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