俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

学問に打ち込める環境を作ることが必要ではないだろうか

子供の教育というのは親にとっては永遠の課題だ。子供の教育に正解などないからな。
学校の勉強がいくら出来ても、一流大学、一流企業に就職をしても、それが正解だとは限らない。
子供に対し、「一流」を強要しているのは親だ。まあ、俺に言わせれば、何を基準に「一流」って決めているのかわからないが。
世間一般的に言う「一流大学」「一流企業」へ入っても、悪いことをする奴は腐るほどいる。経歴と人格とはまったく別問題だからな。人格的に「一流」にならないと、いくら外側だけが「一流」であっても全く意味がない。


この様な事を書くと、「二流、三流の妬み」として取られるかなあ(笑)


子供って色々な可能性を秘めた存在だよな。その可能性を単に「一流」ということだけにとらわれて潰してしまうのは本当に勿体ないと思う。


だってさ、俺たちの時もそうだったが、学校の勉強って結局は、進学のため、受験のための勉強でしかない。自分の希望校へ入学するために勉強をしているだけ。余程の人でない限り、受験の際に勉強したことを今も覚えている人はいないだろう。俺も社会人になってから一度も因数分解など使ったことがない。
今になって感じるのは、数学は基本的な事さえ学べば、後は選擇科目でいいのではないかと思う。二度と使う事のない因数分解を勉強する時間があれば、語学にもっと時間を費やしたかった。結局は受験のために、数学の難問を必死に学んだいたように思う。


高校からもっと選択科目を増やすべきではないだろうか。確かに、文科系とか理数系とかに分かれてはいるが、さらに細分化することが必要な様に思う。
俺は化学が大の苦手だった。化学式なんてまったく判らなかった。まあ、大人になってからも、化学式を使って計算することは未だかつて一度もないし、判らなかったからと不便を感じた事も一度もない。
文科系に進んだのに、何故、化学や物理、難問続きの数学をやらなければならないのか、意味不明だった。
大学に入っても、一回生の時は、一般教養という科目があり、そこでもまた、数学をやった記憶がある。俺、法学部に進んだのに、何故、数学問題やってるの?って思ったね。
そんな時間があるんだったら、法律を学びたいと何度思ったことか。


当たり前になっている今の学校教育の在り方。でも、俺は常に疑問に感じている。
高校2年生の頃から大学で学ぶ内容の基本的な部分を学ぶことが出来れば、大学に入った段階でさらに専門的な分野を学べるのではないだろうか。


例えば、俺の場合は法律を学んだのだが、高校2年から法律ガイダンスや、民法総則、憲法総則、刑法総則を学んでおけば、大学に入った段階で、各法をさらに一方踏み込んで学べる。と、同時に、勉強と学問の違いをも学べる。


勉強は教えてもらったことを記憶し、その方式に従って学ぶこと。しかし、学問は、教えてもらうのではなく、自らが課題を見つけ、自らが学んでいくこと。
もっと簡単に言えば、勉強は受験用、学問は自分のためということだ。


小学校から高校まで、勉強しか教えないから、大学に入ってからもその癖が抜けない人が多い。学問の方法が判らない人が多い。
これでは何のための12年間だったのかわからない。


極論だろうが、大学はすべて受験なしにすればいい。好きな大学へ行けるようにすればいい。但し、卒業は簡単に出来ないというシステムにすべきだ。そうすれば、学校名だけで大学を選ぶのではなく、自分は何を学びたいか、そのために、その大学にはどんな教授陣がいるのかを考え、選擇するようになる。


学者もそうなれば、通り一変の指導をしているだけではダメだ。学者自身も日進月歩しておかなければならず、そうすれば、おのずとすべてのレベルも上がるというものだ。


子供が自分の好きな分野に夢中になって学べる環境を大人が作っていく必要性があるんじゃないかなあ。


まあ、そうするためにも、まずは、日教組を潰し、教育委員会を潰し、受験勉強だけを教える塾を潰すことだな。まあ、夢のまた夢の話だろうが。


しかし、夢のまた夢で終わらせていては、今後の日本はダメになるように俺は思う。
隠れた才能を引き出す環境、学問に取り組める環境を作ることこそが、俺たち大人の責任じゃないかなあ。


俺はそう思うけどなあ。


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