俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

偉大なる父に再会する日まで、俺は俺として生きる。

今から34年前、俺は大学を卒業した後、大学の研究室へ進んだ。そこでは当時としては最先端のデータベースの作成を行っていた。俺は法学部卒業なので、データベースとはあまり縁がないように思えるが、実は、日本で初めての判例データベースの作成を行っていた。俺がパソコンと初めて出会ったのもこの時だった。

今の様にスマートなパソコンなどなく、スイッチを入れて立ち上げる前にもかなりの時間を要した。今の若い人は知らないかも知れないが、フロッピーディスクというものを入れて、そこにデータを蓄積するというものだった。

研究室で毎日の様に膨大な判例に目を通し、それを要約し、データ化していく。ほとんど一日中、無言での作業だった。


当時、俺には夢があった。研究室で働き、お金を貯めて、フランスの大学へ留学するという夢だった。行先も決めていた。モンペリエ大学。


しかし、ある日の事だった。父親にフランス留学について相談をした。

父親は大学教授をしており、世界各国の大学とも交流があった。元々、大学に入った際、第二外国語をフランス語にしたのも、父親が大学時代に第二外国語をドイツ語を専攻していたから、俺はフランス語でと思ったからだ。モンペリエ大学の事も父親から教わった。

俺は当然、父親はモンペリエ大学への留学に賛成してくれると思い、同大学の事について相談したところ、意外な言葉が父親の口から出た。「今までは欧米法をしっかりと見に付けておくことが将来につながるという時代だったが、これからは違う。これからはアジアの時代が来る。そのためにも、中国語、中国人、特に、華僑の人達とのパイプが重要になる。今から留学をするならば、中国語圏へ行け。」というものだった。

俺にしては驚きでしかなかった。と、同時に、「何のために5年間もフランス語を勉強し、フランスの法律まで勉強したんだ。そもそもそれを薦めたのはオヤジだろう!!」という気持ちでいっぱいだった。

と、同時に次のような考えもあった。「オヤジの言う事は間違いない。すべての面で俺の父親は先見の目を持っている。この人の言う事には間違いはない」と気持ちもあった。


俺は父親に「中国語を勉強するためには、中国へ行く必要があるね」と言うと、「いや、中国はダメだ。行くなら台湾へ行け」という、これまた、驚くべき返事だった。

「台湾?それってどこにあるの?」というのが俺の正直な気持ちだった。

そう、俺は台湾がどこにあるかも知らなかった。


まずは台湾という国に行ってみたいと思った。「百聞は一見に如かず」。

俺はすぐに台湾行きのチケットを購入し、台湾へと向かった。


到着したのが桃園国際空港。そこで初めて、生の中国語を耳にした。何をしゃべっているのか全く分からない。文字は漢字だったので、何となく意味は分かるが、同じ漢字でも発音が全く違う。わかるのは「謝謝(ありがとう)」「您好(こんにちは)」だけ。

1週間の予定で来たのが、不安はほとんどなかった。逆にワクワク感が強かった。


空港からバスに乗り、台北市内へと向かったのだが、何となく埃っぽく、俺の子供時代(昭和30年代)の日本に似ている気がしたのを今でも覚えている。


ホテルにチャックイン。フロントの女性は流暢な日本語を話した。「なんだ、日本語通じるじゃないかあ。これなら安心だな」と思ったのもその時だけだけだった。

一歩外へ出ると、日本語が通じない。


今から30年以上も前の台北。今の様に洗練された街ではなく、タクシーもボロボロの車だった。エアコンのついたタクシーなどほとんどなかった。バスも同じ。エアコンなしが当たり前。今の様に地下鉄も走っておらず、工事すら始まっていなかった。

台湾鉄道台北駅も地上にあり、今の中華路をディーゼル車がものすごい音をたてて走っていた。


面白い話があるのだが、タクシーに乗ると、運転手は平気でタバコを吸いながら運転している。俺も喫煙家なのでジェスチャーで「俺も吸うよ」と運転手に伝える「OK!OK!」。でも、後部座席には灰皿がない。すると運転手が、床を指さした。その先の床には穴が開いていて、道路が見える。そう、そこから吸い殻は捨てろという意味だった。


一歩街に出れば、排ガスで年中スモッグの台北。一日街を歩いていると、顔は真っ黒になった。今の台北の街よりも空気は汚染されていたなあ。


食事に行っても話せる言葉は「謝謝」「您好」。何を聞かれてもこれだけしか返事できなかった。


日本で知り合った台湾人の方の紹介で、ある貿易会社の社長さんを訪ねた。その社長さんは日本の大学に留学していたので、日本語はペラペラ。色々話をしているうちに、「丁度今、日本との貿易をしているので、よかったら、私の会社で働かないか。住むところは、事務所の一室を使えばいい」という事になった。

事務所といっても、その社長さんが所有するマンション一棟の内の一軒を事務所にしていたので、使っていない一室を貸してくれる事になった。


俺の台湾生活がいよいよ本格的に始まった。


あれから31年。まさかこんなにも長く台湾と関わるとは思ってもいなかった。まして、家族で台湾へ移住するなんて。


父親の一言。「これからはアジアの時代」。当時は誰もそのような事をで考えてもいなかった。そう言えばその頃父親が言っていたのは「今に、一家に一台パソコンは当たり前の時代が来る。パソコンも小型化され、持ち運びが出来るようになり、すべての情報がパソコン一つで入手出来るようになる。電話も小型化され、無線で持ち運び出来る電話が誕生する。その電話には、パソコンと同じような機能が備わり、一人一台という時代が来る。

車にも自動で地図が映し出され、ボタン一つで行先までの道順を表示するようなシステムが完成されるだろう。」とよく話していた。

今でこそ当たり前のノートパソコンや携帯電話、カーナビ。当時は考えられないものだった。

まして、法律の専門家だった父親が何故、数十年先の日本の技術を予測出来たのか。

今でも父親は凄い人だったと尊敬している。


父親が専攻していたのは知的財産法だった。まあ、この法律自体、当時は聞きなれない法律で、工業所有権法と呼ばれ、その後、無体財産法、そして、知的財産法となった。

工業所有権法を無体財産法と名付け、知的財産法と名付けたのも父であったと聞いている。


とにかく、学者としては最高峰まで登りつめた人だったと思う。

もちろん、父親としても、尊敬する偉大な父だった。

夫としても妻を心から愛していた人だった。


こんなに凄い人を父親に持つと、息子、特に、長男は苦労する。

だいたい、こういった素晴らしい父親の長男坊は、とんでもない方向へ行くというのが、ドラマや映画でもよくあるパターン。


あははは!!俺もそうなのかも知れないなあ。


俺は父親の様に凄い人にはなれないかも知れないが、俺なりの生き方を貫き通して見せる。

誰に何と言われようと、俺には俺に与えられた使命、宿命があるんだから、それをきちんと果たし、後世に伝承していこう。

いつの日か、父親とあの世で再会した時、「俺、これだけの事をやり遂げたぜ」と胸を張って報告出来るようにな。


シニア世代の仲間たちよ、俺達も一歩一歩、自分の先祖さん達にお会いする日が近づいている。その日が来るまでに、しっかりと自分らしく生きていこうぜ!!!



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