俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

もう一度会いたい両親に

18年前の今日、俺の母は息を引き取った。62歳だった。
母親の死は男にとっては本当に辛いものだ。平成3年に父が亡くなった。その時もショックが大きかったが「これからは俺が母を支えてやらなければならない」という気持ちがあった。
俺の両親は本当に仲が良かった。俺が憧れる夫婦だった。父が亡くなった時「これで私の人生も終わった」とつぶやいた母。それだけに、俺がしっかりと母を支えてやらなければと思った。
母の口癖は「お父さんの七回忌までは私が責任をもって取り仕切るから、十三回忌は、あなたがやってよ」だった。
母は約束通り、父の七回忌を終え、直ぐに、父の元へと旅立った。


今でも覚えているのが、母が亡くなる一年前のひな祭り。一緒に、雛人形を飾っている時、「後、何年、こうやって一緒に飾れるかねえ」と言った母。
故に、今でも雛人形を飾る時、その時の母を思い出す。


その母が亡くなり、俺の中で何かが音を立てて崩れるような気持になった。長男としての責任。母の葬式でも喪主を務めなければならず、出棺の直前まで気が張っていた。いよいよ出棺の時。棺桶の蓋が締められる直前、大声で「締めないでくれ!」と叫びたくなった。火葬され、骨だけになった母を見た時、言葉では言い表せない孤独感を感じた。
もう二度と母の声を、母の温もりを感じる事が出来ないという現実を突きつけられた瞬間だった。


俺と母は本当に仲が良かった。何でも話せる間柄だった。俺にとっては自慢の母だった。
父は非常に厳格な人で、厳しく育てられた。長男という事で期待も大きかったのだろう。その期待が重圧だった。それを母がいつも優しく癒してくれた。


俺はマザコンだった。でも、それを恥だとは思わなかった。もちろん、何でもかんでも「母さん、母さん」というマザコンとは違う。


俺がこの世に生を受けて、一番最初に出会った女性が母。その母を慕うのは俺は当然の事だと思う。反抗期もあった。母と喧嘩した事もあった。でも、俺にとってはたった一人の母。俺が苦境に立たされた時、いつも励まし、応援してくれた母。


妻とはまた違う存在。妻同様に大切な存在だった。


俺が「自分らしく生きよう」と決めた原因の一つが母の死だったのかも知れない。俺が慣れない日本のサラリーマン生活を過ごしている事を妻同様に見抜いていた母。


今の俺の生き方を母は認めてくれるのだろうか。この答えはあの世で母に再会した時にしか判らないが、亡き両親に認めてもらえるような生き方をこれからもやっていきたい。
もう一度でいい。父や母に会いたい。話がしたい。でも、それは叶わぬ夢。

未だ親が健在な方。親はいつまでもあなたの傍にはいない。生きている時は「居て当たり前の存在」と思っているだろう。しかし、当たり前なんかじゃない。
時間を作って、親に逢いに行けよ。電話しろよ。


もうすぐ母の日だ。来月は父の日だ。
プレゼントは、あなたの笑顔を見せてやることだ。


俺はそう思うけどなあ。


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