騙され、裏切られても、恨まず、憎まず、でも、許さず
人間生きていく上で、理不尽な事、納得のいかない事、色々とあるよなあ。
誰がどう見ても、相手が間違っていると思っても、それを立証するための証拠がないと、こちらが泣き寝入りしなければならない事もある。
俺も今までに何度もそういった経験をしてきた。だから俺は、「人を信用しない」というところから人を見るようにしている。
どんなに良い人だと思っても、その人間の心の奥底までは見抜く事は出来ない。
「あの人を信じていたのに、裏切られた」と思うより、「最初から信用していなかったから、何とも思わない」と思える方が楽だ。
若い頃は「人が人を信用出来なくなったら、一体、何を信じて生きていくんだ」と思っていた。どんなに裏切られても、騙されても、その考えは変わらなかった。
しかし、この歳になると、その考え方も大きく変わった。
不思議なもので、「最初から信用しない」という考え方になってからは、ある時期になると相手も本性が見えてくる。良い本性か悪い本性かは別にして、相手が理解出来るようになる。
その時点で、自分にとってはマイナス効果しかない相手は切るだけ。恋愛と同じだよな。
「愛は盲目」何て事を言うが、正にその通り。相手を信用し過ぎると、本当の姿が見えなくなってしまう。
一歩引いたところからしっかりと相手を見るようにしなければ、必ず、手痛い目に遭う。
もしも誰かに裏切られ、騙されたとしても、相手を恨み、憎むことはしない方がいい。
簡単な事ではない。それは判っている。でも、相手を恨み、憎んでいる間は、相手は何事においても上手くいく。しかし、相手に対しての恨み、憎しみを捨てた途端、相手は落ちていく。
俺は今では、人に裏切られ、騙された時、まず最初に思うのが「あんな奴の事を信じた自分はまだまだ未熟で、精進が足りない」という事。未熟な自分に腹が立つ。そして、次に、「これも何か意味があるはずだ」と考える。
人生の中で起こることには全て意味がある。その意味が何であるかを真剣に考える。すぐに答えが出てこない事もある。しかし、後になって、その意味が判る。
相手に対しては、憎まず、恨まず、しかし、許さずの姿勢でいく。
騙した相手を許す必要はない。必ずどこかで自分のやったことにケジメはつけてもらう。
だから許しはしない。
自分自身に対しては、己の未熟さに怒り、そして、反省をする。二度と同じような事で手痛い目に遭わないようにするために。
こういう考え方をするようになったきっかけは、ある人物に騙され、手痛い目に遭った時、俺は、その相手を恨み、憎んだ。その怒りは消えることなく、日にちが経てば経つほど、大きくなっていった。その間は仕事も上手く進まなかった。怒りの方が勝っていたから。しかし、ふと気づいた「俺は今、人生の貴重な時間をあいつを恨み、憎む事に時間を使っている。あんな屑みたいな奴のために、俺の貴重な時間が奪われている」とね。
そう考えると、憎んだり、恨んだりしていることがバカバカしくなった。
そして、「許さない」その気持ちだけを持っていればいいんだと気付いた。
「罪を憎んで人を憎まず」ってことも言われるが、俺はまだそこまでは達していない。
やはり、騙した相手、裏切った相手は許せない。許す気もない。
裏切られたり、騙されたりするのは、まずは、自分自身の責任だ。騙された自分が悪い。
でも、それと同時に、裏切られ、騙されたおかげで、自分自身を成長させることも出来る。
しかし、成長するためには、どんな内容であれ、まずは、自己反省をする事。相手の責任にせず、愚かだった自分に対し、しっかりと反省をする事だ。
そうすれば、大きく自分を成長させることが出来る。
面白いもので、裏切った相手、騙した相手と後日、どこかでバッタリと会うと、相手の方が逃げるようにしてその場から立ち去っていく。
俺は意地悪だから、そういう時はわざと相手を呼び止め、「元気そうですね」と声をかける。すると相手は顔が引きつり、時には、小刻みに震えながら、俺の目を見ずに、適当に返事して、その場から逃げていく。
騙されても、裏切られても、堂々と生きていたものが勝ち。事が起こった時は、相手は勝ち誇った気持ちでいるだろうが、こちらが常に堂々としていれば、相手はそれが怖くて逃げるようになる。
人から何を言われようとも、どんな陰口を言われようとも、真実は常に一つ。
堂々と生きていればいい。損した分は取り戻すことが出来る。
ただし、誤解しないで欲しい。裏切り、騙した相手を野放しにはしない。先ほども書いたが、きちんとケジメはつけてもらう。罪は罪として、きちんと罰してもらう。
恨まず、憎まず、でも、許さず。難しい事だけで、考え方ひとつで変えられる。