俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

歴史の生き証人の証言。俺はそこに真の歴史があると信じている。

俺は今、台湾東部。花蓮という場所に住んでいる。台湾で一番面積の広い県。

しかし、人口は県全体で33万5000人ほど。93%が山で平地は7%しかない。

南北に137.5km、東西に42kmと、細長い県だ。


台湾で最初に日本人移民村が出来たのが花蓮。1904年に開村した「賀田村」。

その後、1910年に、国営の日本人移民村の吉野村、豊田村(1913年)、林田村(1914年)と開村した。いわゆる、台湾における日本人移民村発祥の地という事になる。


台湾には数多くの日本の歴史が残されている。俺は、その日本の歴史を中心にした観光コースを「花蓮歴史街道の旅」と称している。今までにも大勢の方々をご案内した。

花蓮と言えば、太魯閣(タロコ)渓谷が有名で、逆言えば、太魯閣渓谷以外には見どころがないと思っている日本人も多いようだ。

しかし、俺は昨年から太魯閣渓谷観光を全面中止した。その理由は、多発する落石事故。

落石と言っても、規模が違う。2階建ての大型観光バスよりも大きい岩が落ちてくる。岩自体は大理石。故に、非常にもろく、道路にぶつかると、爆弾の様に破裂する。その破片は先端が鋭利な刃物の様になっていて。その破片が首や顔に刺さって、死亡する人も出ている。また、岩が車を直撃し運転手はじめ、同乗者全員が即死したりもしており、毎月の様に死傷者が出ている。

そんな危険な場所だが、旅行社にとって、一番金儲けが出来る観光地。故に、一切、事故の事は公表していない。日本の大手旅行社は未だに、花蓮旅行=太魯閣渓谷観光を目玉商品として販売している。

幸い、日本人観光客の死傷者が出ていないが、落石事故などは、何時、どこで発生するか判らない。俺はそんな危険な場所に、日本人観光客を連れて行きたくない。当然、俺も死にたくはない。だから、中止している。


その分、花蓮歴史街道の旅や、東海岸の旅、歴史&温泉の旅、DIY三昧の旅等々、色々な旅行プランを考えた。


ところで、歴史街道をご案内するにあたり、俺は事前にその地域に日本統治時代から住んでいた当時は自分は日本人だと信じていた今の台湾人の方や、自分たちが住んでいる場所は、日本国の一部だと信じていた台湾生まれの日本人の方にインタビューを行った。

俺は、学者さんやジャーナリストさん等々が書いた論文や本も読むが、自分の足で歴史の生き証人の方々のお話を聞くことに重きを置いている。

実際にその方が目撃したこと、その方が体験した事、それが一番確かな情報だと信じている。もちろん、皆さん、ご高齢なので、記憶があいまいな部分もある。その場合は、別の方にも同じような質問をする。数名の方に同じ質問をして、内容が同じ内容の証言であれば、それは、立派な歴史的事実である。

しかし、先に述べた学者さんやジャーナリストさん等々、お偉い方々は、その証言を裏付ける文献、資料がなければ認めない。


当時の文献や資料、俺はそっちの方が信用出来ない。戦争という悲しい出来事の中、日本国軍にとって不利な文献や資料。改ざんされていても不思議ではない。

「経験」これが一番確かなものだと俺は思う。

故に、その道のお偉い方からは俺のことを「素人の歴史研究家」「所詮は趣味の一環でしかない」と言われているようだ。

別に構わない。俺は、お偉い方々に認めて欲しくて研究している訳ではない。

俺は、経験された方々の、その貴重な経験を、後世に伝承したいと思い、研究を続けている。


よく皆さんからは、「本を出版されてはどうですか」と言われる。俺も真剣に考えた事がある。しかし、まずは、出版してくれる出版社が見つからない。そりゃそうだろう。無名の民間の研究所の人間が書いた本。誰も相手にはしてくれないさ。


花蓮のガイドブックも書き上げた。今まで誰も出版してない、花蓮の様々な観光スポットをその地に残る秘話も加えて書き上げた。

しかし、これも未だに出版社は見つからない。残念だが、これが現実だよな。

一応、電子書籍にしているが、やはり、まだまだ紙には負けるよな。


花蓮に眠るもう一つの日本の歴史、これを研究し、後世に伝承するために、金にもならない研究を続けている。バカな奴かも知れない。でもさ、こういったバカが一人でもいなければ、誰が歴史の生き証人の方々の経験を伝承出来る?絶対に忘れ去ってはいけない、消してしまってはいけない貴重な、貴重な事実だぜ。

だから、俺はこれからも研究を続ける。


近々、「花蓮歴史の生き証人」サブタイトル「自分は日本人だと信じて生きていた台湾人 ここは日本だと信じて生きていた日本人」と称したブログでも立ち上げようかと思っている。


俺が今続けている研究に対し、一番の理解者は妻。そして、その時代を生きた台湾人、日本人の諸先輩方。俺はそれで十分だ。皆さんが理解してくださり、応援してくださっている限り、俺は、誰に何と言われようと、この研究は続ける。


今日も、花蓮市内にある「松園別館」というところについて、とあるSNSでコメントした。ここでは、終戦の日、日本陸軍花蓮分屯大隊の将校さん達が、玉音放送を聞いた後、松園別館の別館裏庭にあった小屋で、戦争に対する3つの責任(①戦争そのものへの責任 ②花蓮から特攻機を出撃させた責任 ③日本が台湾を統治していたため、罪もない台湾人の方々を戦争に巻き込んだ責任)を取るために、自害されました。

これは、終戦間際、日本陸軍花蓮分屯大隊に勤務されていた日本人の方が、ある日の夜、将校さん達が住んでいる官舎にいた、ある将校さん(この方は証言者が結婚する際、仲人をしてくださったそうです)がご夫婦を食事に招待された時に、その将校さんが「戦争はもうすぐ終わる。日本はこの戦争には負ける。日本が負けたなら、お前たちはすぐに日本本土へ戻れ。台湾に残ることはするな。自分達が全ての責任を負う。お前たちは何があっても生きて、日本本土へ戻れ、そして、日本国再建のために頑張ってくれ。これは自分からの遺言であり、命令だ」と泣きながらお話されたそうです。

「その時の将校さんのお顔、お声は今でも脳裏に焼き付いています」と、その方は語ってくださいました。


当時、自分はに日本人だと信じて生きていた台湾人の方々からもいくつかの証言を得ている。「終戦間際になってくると、日本の兵隊さん達が、私達台湾人に対し「もうすぐ戦争は終わる。我々が花蓮に来たがばっかりに、花蓮も空襲に遭い、怖い思いをさせたな。

それももうすぐ終わるからな。」と当時、まだ子供だった私たちにお話しされていました」と。

さらに、「終戦の日、若い兵隊さん達が、日本兵として出兵し、戻らなかった台湾人の方々の家を一軒一軒訪問し、「本当にすまないことをした」と深々と頭を下げ、自分たちに支給されていた乾パンや缶詰を遺族の人に渡し、「今の自分たちにはこんな事しか出来ないが、どうか、墓前に供えて欲しい」と置いて行かれました」と、親と一緒に対応に出た当時小学校6年生だった方が目撃されています。


しかし、この話に関する文献などあるはずもない。文献がないからそれはおかしいと決めつける事自体、俺は間違っていると思う。

だから俺は俺が信じるこの事実を、観光に来た日本人の方や、俺のブログ等々で発信している。

この話に異論を唱える人もいる。俺は、異論を唱える人の事を否定する気はない。その人はその人なりの信念を持って、異論を唱えるのだから。

しかし、俺は俺の信念を持って、この歴史の生き証人の証言を信じ、公表している。


どちらが正解かなど俺には関係ない。実施に、その話を聞いた人がいる限り、それを伝承するのが俺の使命だから。


人間、自分自身の信念を曲げず、生き抜くことは容易な事ではない。

しかし、信念を持ってさえいれば、誰に、どのように思われようと、何を言われようと、堂々と生きていける。


良き理解者を得て、自分の信念をしっかりと持ち続ける事、これは大切な事だと俺は思うね。


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