俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

自分のやりたい道を目指して

最近、返答に困る質問がある。「お仕事はなんですか?」という質問。


花蓮の観光ガイド、これもある。作家、これもある(但し、売れない作家)。役者、しばらくやっていない。日本統治時代の花蓮の歴史研究、これはずっと続けている。しかし、研究では飯は食えない。


観光ガイドと言っても、一日一組限定。そのお客様が例え一人であっても、他のお客様との混載は一切しない。


作家といっても、事前の取材に莫大な時間をかける。自分が納得いくまで決して文字にしない。だから一冊の本を仕上げるのに、最低でも3年以上を費やす。
今年は4冊の本を出版したが、(内1冊は10月に発売)2冊はエッセイだったので、さほど時間を要しなかったが、残りの2冊は、4年以上の時間を費やした。
今後出版予定の本も、取材時間5年。おそらく来年上半期には本として完成するだろう。


役者としては、台湾にきてからはまったくやっていない。機会がなかった。
やりたい気持ちはあるが、台湾に居ると現実問題としてオファーも来ない。
ただ最近、裏方として仕事、台湾現地コーディネーターというお仕事を頂いた。
初めての体験であったが、非常に勉強になった。一つの映画を作り上げるために、どれだけの時間を費やし、どれだけの汗が流れているかがよくわかった。


歴史研究家。これはまったくお金にはならない。ただ、この研究成果が本の出版へと繋がり、ガイドの際のガイド内容に厚みを持たせてくれる。直接的ではないが、間接的に役に立っている。


こう考えると、俺の仕事は観光ガイドになるのだろうか。しかし、俺はガイドでは満足しない。
理想は作家として飯が食えるようになる事だが、これは本当に難しいよな。


自分がなりたいことと現実とのギャップ。誰にでも経験はあるだろう。また、一体、自分は何になりたいのかを見つけ出せずにいる人も多いだろう。


でもさ、大切な事は、まずは、やりたい事が見つかっている人は、それを実現させるために、努力を続ける事だ。でも、いくら努力をしてもそれが叶えられる保証などどこにもない。ただただ、自分を信じ、やり続けるしかないんだよ。挫折も経験するだろう。いや、挫折、失望の方が多いかも知れない。それでも、懲りずに、やり続ける事。
俺だって、本が出版できるなんて夢にも思っていなかった。でも、その気になれば、方法は幾らでもある。自費出版なんて莫大な費用を費やす必要もなく、本を出版する方法はある。要は、本気でそうしたいかってことだよ。本気になれば、おのずと、道を見つける事が出来る。見つけたら、迷わず、前進していくのみだ。


まだやりたい事が見つかっていない人は、焦る必要はない。焦るから不安になるし、焦るから間違った方向へ進んでしまうんだよ。
ただ、アンテナは常に張っておけよ。ボーと生きていたら、折角のチャンスを逃してしまうからな。では、アンテナってどうやって張るかだが、それは、常に色々な事に興味を持つことだ。今の自分にすぐに役に立たない事でも、一応は興味を持つ事。そして、自分の引き出しにファイリングしておくことだ。
物事に興味を持たない奴は、自分のやりたい事なだ見つける事は出来ない。自分が興味のない事には無関心な奴は、視野が狭くなり、結局はいつも同じ事を繰り返しているだけになる。
マンネリ化した生活ってよく言うけど、それは、自分自身の気持ち、考え方がそうさせている。マンネリ化なんて有り得ない。世の中、常に動いている。激変している。ただ、自分がそれに興味を持たないだけだ。自分で視野を狭くしているだけ。


まあ、恋愛と同じだよな。目の前しか見えない。その相手が絶対的存在に思える。だから、先が見えないし、先が見えても、不安は見ない様にする。バラ色の部分、良い部分しか見ない様にし、相手を美化し、自分を正当化する。こんな恋愛は、一度つまずけば、いとも簡単に崩れ去るだけだ。


視野を広げる事だ。そのためには、もう一度言うが、あらゆることに興味を持つ事。そのための努力を続ける事だ。


だから俺も57歳になっても、自分のやりたい道を追い続け、そのための努力を続けている。ガイドは俺のやりたい道を進むための手段であり、食っていくための手段。
俺が目指す道は、俺にははっきりと見えている。
その道目指して、前進あるのみ。どんなに人にバカにされても構わない。だって、俺の人生なんだから。


俺はそう思うけどなあ。

布農族と台湾大学の戦い

昨日、日本の某地方新聞社の記者さんが花蓮県萬栄郷馬遠村へ取材に行くということで、俺に通訳の依頼があった。
実は俺と馬遠村とは縁がある。
今から3~4年前、同村を台風が直撃し、土石流の被害があった。俺はすぐに現場に向かい、被害状況を把握、必要な支援物資を聞き出し、日本へ向けて支援要求を出した。
その結果、日本から支援物資、義援金が集まり、俺はそれを持って同村へ届けた。


今回の取材は、台湾大学に保管されている人骨の返還要求運動に関するものだった。
1960年代に台湾大学の研究者が同村を訪れ、原住民族のルーツを調査するという名目で、墓を掘り起こし、半ば強制的に人骨を持ち帰った。
当時の台湾は、蒋介石の時代で、戒厳令下にあった。政府に対し、批判したり、文句を言うものは身柄を拘束された時代。祖先の墓を掘り起こされたのは、馬遠村に住む原住民・布農族の人々だった。
当時の事を知る今の長老達は、全員がこの事実を語ろうとはしなかった。


時が流れ、今年に入り、台湾大学で人類史を学ぶ布農族の女子大学院生がある日、一本の論文を目にした。そこには、自分と同じ、馬遠村出身の布農族の遺骨の写真が掲載されていた。驚いた彼女は、知り合いの東華大学の教授に連絡、教授は事実確認をするために、馬遠村を訪問した。当然、その話を聞いた今の世代の村人は、全くそのような事実は知らず、すぐに、村の長老達に確認を行った。最初は語ろうとしなかった長老達も徐々に重い口を開き、「確かにそのような事実はあった。しかし、我々は当時、その遺骨を何の目的で掘り起こし、どこへ持って行くかは一切聞かされていなかった。戒厳令下では、政府の人間(台湾大学は国立大学。教授陣は国家公務員にあたる)に逆らうことも出来ず、従うしかなかった」と。


この事実を知った馬遠村の人々は激怒した。そして、すぐに台湾大学に事実確認を行うも、台湾大学側は彼らの訴えを門前払いした。
しかし村人は諦めず、今度は、原住民立法議員に陳情。議員が台湾大学に対し、事実確認を行うと同時に、情報公開を求めた。政治力による圧力で台湾大学側はやっと、事実を認めた。


何故、台湾全国にいる原住民の中から、馬遠村の布農族が選ばれたのか。1960年代当時、この研究には、日本の大学(九州方面)も関与しており、日本・台湾両大学の研究者の報告では、「マラリア等々の伝染病の心配がなく、完全な状態で遺骨を発掘できる場所はどこか」という項目に、両大学の意見として「①布農族は、土葬の習慣があり、彼らは、台湾人とは違い、一度土葬した遺体は掘り起こすことはない。(台湾人の場合、当時は、ある一定の期間は土葬し、その後、墓を掘り返し、遺骨だけを取り出し、別の墓に移す習慣があった)丁度、花蓮県馬遠村では墓地が手狭になっており、別の場所に移転する予定がある。しかも、馬遠村は伝染病の心配もなく、発掘に十分な時間を費やすことが出来る」という理由から、馬遠村が選ばれた。


60年近くこの様な事実を隠していた台湾大学に対し、馬遠村の人々は、遺骨の即時返還と、慰霊碑建立のための費用負担及び、研究成果の公表等々を台湾大学側に要求している。


さらに、この運動の代表である馬鍾啓氏は「台湾大学にはほかにも数多くの遺骨が保管されている。例えば、日本の沖縄民族の遺骨、北海道のアイヌ民族の遺骨、台湾の他の原住民族の遺骨などもある。我々の運動をきっかけに、全ての遺骨が故郷へ返還されることを願っている。」と語った。
また、この事実を語ろうとしなかった長老達に対しても「時代が時代だった。語りたくても語れなかった。だから長老達を責める気はしない。しかし、今の時代は、自由に何でも語れる時代。だから、全ての事実を語ってくれた長老達には感謝している。自分達の目の前で、祖先の遺骨を持ち出されるのを黙って見ているしかなかった長老達も気持ちを考えると、台湾大学には即時返還をしてもらいたい」とも語った。


研究のために必要だったという大学側の言い分も理解できるが、遺骨を持ち帰った事実を秘密にし、情報公開要求があっても、政治的圧力がかからない限り、公開しようとしなかった大学側の姿勢には大きな問題が残る。
また、研究が済んだならば、即時に遺骨を返還すべきなのに、それも行わなかったことは大きな問題だろう。


昨日は俺にとっても非常に良い経験をさせてもらった。
まだまだ知らない事の方が多い。常に謙虚な気持ちでいる事が大切だ。
何年台湾に住んでいようとも、俺は台湾人にはなれない。あくまでも外国人。台湾に住まわてもらっている外国人。言葉が話せても、生活習慣が台湾流になっても、食生活が台湾流になっても、俺は外国人だ。故に、知ったかぶりはせず、新しいことを常に吸収していく姿勢で生き、少しでも台湾の人々に近づける様に努力することが大切だ。


俺はそう思うけどなあ。

日本人が群がる様々な団体

俺の住む台湾には実に数多くの日本人の団体がある。その内容も様々だ。
しかし、全てに共通して言えることは、外部の人間が自分達の領域に侵入してくる事を極端に嫌い、時には妨害し、攻撃もしてくる。


例えば、その団体がある人物、ここではAさんとしよう。そのAさんを囲む会の様な団体だったしよう。そのAさんについて、別の人物が本を書きたい、映像にしたいと思った場合、まず、その団体にご挨拶に行き、趣旨をご説明申し上げ、了解を得ない限り、一切の資料の提出もしないし、それを無視した場合は、嫌がらせを受けたり、攻撃を受けたりする。そこには、肝心のAさんの意思は一切働いていない。全てが、そのAさんを取り巻く日本人の意思なのだ。


暗黙のルールというよく意味のわからないものが存在する。自分達の監視、管理の目のが届かないところで、あるいはまた、自分達が中心でない場合は、まず、100%、協力はしないし、妨害してくる。


信じられるか。同じ日本人同士なのに、自分達が中心でない限り、一切の協力もせず、妨害までしてくれんだぜ。如何に心が小さいか。


まあ、俺の場合は、そんな団体には一切お構いなしで、俺なりの方法で必要なものはすべて揃える。だから、そういった団体のメンバーの日本人に睨まれ、嫌がらせを受けるんだろうが、一切気にしない。


先のAさんの事を、誰が、どの様に表現するかは自由なはずだ。AさんはAさんであって、その団体の所有物でもなければ、マスコットでもないはずだ。


俺の研究所で研究している、賀田金三郎や国田正二の事を別の人間が本にしたい、映像にしたいと言ってくれたら、俺なら嬉しいけどね。
一人でも多くの人間がその人物に興味を持ってくれるなんて、最高じゃないか。
例え、その表現方法が自分の意図するところと違っていても、それは人それぞれに捉え方はある。


しかし、台湾に存在する団体はそれを許さない。


俺は俺のやり方を貫き通すだけだ。これでまた、「あいつは!」と睨まれるだろうが何も悪い事をしている訳ではないし、怖くもない。
それよりも、志を持って、熱意を持って、頑張っておられる方々のお力になれる方が俺には幸せだから。


これが俺の生き方。


最後に、色々ある団体、もう少し器を大きく持った方がいいぜ。


俺はそう思うけどなあ。