俺の独り言(シニア男の本音トーク)のブログ

台湾東部、花蓮に家族で移住したシニア世代に突入した中年男の本音トーク。同年代に送り届けたい独り言。若い世代に残したい独り言。

「ダメ」ダメから始める教育ではなく、「どうして?」から始める教育

「これはやってはダメです」「これは規則で禁止されています」。日本って、なんだか「ダメ」から始まることが多いように感じる。
だから日本へ行くとやたらと「禁止」マークのシールが目に付く。


親が子供に対して教育するときも、学校が生徒を指導するときも、「ダメ」から始まる事って本当に多いよなあ。


最低限守らなければならないルールは必要だし、マナーは必要だ。それは十分に理解できる。だからって、何でも「ダメ」から始まるのってどうかと思う。


何でも「ダメ」と言っておけば一番楽なんだろうね。だって、全員が「ダメ」なことはしないのだから、問題は発生しない。万が一、「ダメ」なことを破ってやった場合は、「最初からダメだって言ってたでしょう」と叱れば済む。
しかし、そこには、「何故ダメなのか」「ダメな事をした場合、どの様なことが発生するのか」という説明が一切ない。
「ダメなものはダメ」で終わっている。
だから進歩がないし、考えようともしない。


さっきの言ったけど、最低限守るべきルールはもちろん必要だ。
特に、法律で禁止されていることはやってはいけない。犯罪だから。でも、そではなく、普通に生活をしていくうえで、自分たちの都合だけで作ったルールってあるよね。ほら、親の都合で「ダメだ」と言ってることも数多くあるでしょう。
また、世間一般的に何となくダメだと言ってるから、我が家もダメだってことも。


「ダメ」から始める教育ではなく、「どうして?」から始める教育が必要なのではないかなあ。「どうして?」ってことを考えて、その結果、「あー、やっぱりこれはやってはいけないよね」と納得して「ダメ」を決める。


会社内でもそうだと思う。今までの経験からダメだとか、前例がないからダメだとかではなく、どうすれば?という事から考えれば、ダメだと思っていたことも、全然ダメなんかじゃないかもしれないし、新しいアイデアが浮かぶこと事もあると思う。


些細な事からでもいいから、「ダメ」から始まらず、考え直してみるものいいんじゃないかなあ。


俺はそう思うけどなあ。

奇跡は起きるものではなく、起こすもの

久しぶりにブログを書く。
2020年が始まった。日本では正月休みも終わっただろうが、台湾は旧正月のため、今年は1月24日が除夜、25日が旧暦の1月1日になる。


俺にとっては2019年は大きく変化していくための基礎作りの一年だった。
今年は、今までとは違い、大きな変化を遂げる年になる。


物事の変化って、自分でその気になって行動しないと、変化なんて起きないよな。外的要因で変化を余儀なくされると、人間ってストレスがたまり、時には怒りが爆発することがある。
でも、自分から動いて、変化を起こすのだから、ストレスはたまらないし、怒りも出てこない。


よくさ、「奇跡が起こった」なんて言うけど、奇跡って自らが動いた結果だろう。動かないと奇跡なんて起こらない。すなわち、奇跡は起きるものではなく、起こすものなんだと俺は思う。


今年は政府との交渉事も多くなる。外国人の俺が交渉するのだから、普通ではいかないと思う。だから、面白いのだけどね。
この歳になるとさ、困難を楽しむという事も出来るようになった。
えっ、困難を楽しむ秘訣は何かって。物事を難しく考えすぎないことかなあ。5分悩んで答えが出ない場合は、その日はそれ以上考えないようにしている。
答えなんて、思わぬところに転がっている場合もあるからね。
答えは必ずある。だから、焦る必要はない。答えは逃げないから。答えにたどり着くまでの時間を楽しめばいい。


どんなことでも、生きているから経験出来る事なんだから、感謝してさ、楽しもうよ。


俺はそう思うけどなあ。

顔の見えない世界だからこそ、最低限の礼儀は尽くそうぜ

俺は台湾の花蓮で観光ガイドの仕事もしている。ホームページやブログなどで花蓮を紹介し、主な観光コースなども記載させてもらっている。お客様はそれを見て、お問い合わせやお申し込みをしてくださる。


以前は、お問い合わせがあり、そのご質問にお答えし、その解答に対して、お客様のご要望などが返ってくるという具合に、お客様とこちら側とのやり取りが数回行われ、最終的に、「お願いします」か「今回は見送ります」という最終的なお返事が来ていた。
しかし、最近は少し様子が違っている。
色々と細かい事を質問して、こちらもそれに対してきちんとご回答を申し上げているのだが、最終的なお返事がまったく来ないというケースが増えている。
こちらもお越しになるのか、来ないのかが判らないために、予定を空けておくべきか、別のお客様のご予約を受けるべきかの判断が出来ない。
そのために、再度、お客様にメールを送り、お伺いを立てるのだが、それでも返事が来ない人がいる。
そうなると、こちらも「来ない」と判断し、別のお客様からのご予約を受付けるのだが、ギリギリになって「以前、問い合わせた〇〇ですが、花蓮に〇時に到着しますので、よろしく」とメールが来る。
こちらとしては、再度のお伺いもしており、それに対して無回答だったために、別のお客様のご予約を受け付けているので、ギリギリになって言われても、どうすることも出来ない。事情をご説明し、丁重にお詫び、お断りをするのだが、逆ギレされることもある。
そして、「〇〇は予約していたのに、ギリギリになってドタキャンしてきた」とSNSで投稿されたりもする。
信じられない様な話だが、本当の話だ。


だから俺は、SNS上での情報は一切、信用しない。匿名性の高いSNS。相手に対して、面頭向かって意見するのではなく、陰に隠れて、如何にも自分が正義だという様な顔をして意見する輩の多い事。
俺は、人を批判するような書き込みを平気でする人間は一切信用していない。
しかし、世間は、意外とこの人を批判する書き込みを好み、恐ろしいぐらいにすぐに信じる。
本当に恐ろしい世の中だ。


でもさ、書き込みする奴もそうだし、それに対して、同調して、同じように書き込みしたり、シェアする奴も、一歩間違えば、大きな犯罪を犯しているという自覚はゼロなんだろうな。
そういった奴らが親であり、社会的にもそれなりの肩書をもった人間なんだからなあ。


俺を目の敵にしているオヤジがいる。台北に住む日本人だが、そいつのSNSに、俺について、まあ、好きな事を書いてくれている。「おいおい、お前さんは俺の何を知っているの?」と言いたいけど、そのオヤジの書き込みに同調して、一緒になって好き勝手をコメントしているバカも大勢いる。
俺に言いたいことがあるならば、直接、俺に言えばいいのに、それは出来ないという本当に情けない、恥知らずのオジサンだ。


正直、最初の頃はやはり気分の良いものではないし、腹も立った。今は、笑いながらスルー出来るようになった。慣れたという事と、妬まれるってことは、その時点で俺はそのオヤジに勝っているということだから、気にするだけバカバカしいと思ったから。


何だか、話が大きく反れてしまったけど、顔が見えない世界でのやり取りの場合、やはり必ず、最終的な結論というものは、相手にきちんと伝えるべきだと俺は思うよ。
それが、礼儀だし、大人でしょう。